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フィルム・ノワール試論 1 [映画 Movie]

昔から書いてみようと思って、結局何も着手せず。いやいや、何回かメモ書きで書き出したりしてみたのだが、結局途中でやめてしまい・・・。ブログで、適当に書き出し、気になったら文章を修正したり書き足したりすれば、できるのではないか、と思い、始めてみる事にした。

1.フィルム・ノワールの定義について
2.構成要件 ~フィルム・ノワールを構成するもの~
 (1)最重要な構成要素 ~善悪の価値基準の曖昧さ~


1.フィルム・ノワールの定義について

狭義の意味でのフィルム・ノワール、広義の意味でのフィルム・ノワールというものが存在し、前者は至って簡単であり、考察には特に値しない。定義すれば良いだけの話だ。1940年代〜1950年代の犯罪物の映画という定義が狭義になるのだが、2000年代に作られる映画でも、「これはフィルム・ノワールだ」と万人が思う感性が存在する以上、広義の意味でのフィルム・ノワールとはどういうものなのか?何の構成要件が、それをフィルム・ノワールであると思わせ足らしめるのか、ということは考察に値する。

自分の感性で言えば、筆者は『魅せられて』はフィルム・ノワールではないと考えている。『LAコンフィデンシャル』も若干フィルム・ノワールではない。しかし『ブレードランナー』『エンゼルハート』『ビッグ・リボウスキ』は明確にフィルム・ノワールだ、と断言できる。その定義が、その要素がいったいなんであるのかを明文化したいのだ。

『ビッグ・リボウスキ』はフィルムノワールである。これほどフィルムノワールの短絡的なイメージの対極に位置する映画はないであろう。しかし一つ一つの構成要件をみていけば『ビッグ・リボウスキ』が純然たる、見事なフィルム・ノワールであることが証明される。

※狭義の意味でのフィルムノワールと区別するために、狭義に定義された年代以降に作られたフィルムノワールはすべてネオノワールと呼ばれる。ただし後年作られた映画で、舞台を過去に設定している場合、それをネオノワールと呼ぶ必要があるのだろうか。

2.構成要件 ~フィルム・ノワールを構成するもの~

(1)最重要な構成要素 ~善悪の価値基準の曖昧さ~
善悪の価値基準が曖昧であること。勧善懲悪がはっきりしている映画は犯罪映画であろうともフィルム・ノワールではない。他のすべての要素は、この最重要な構成要素を補強する意味でしか存在しない。悪の価値観を持つ者を主人公に据えた場合。たとえその映画が犯罪を取り扱う映画であろうとも、価値基準は悪の方に比重が置かれるため、映画はフィルムノワールにはなりえない。

勧善懲悪もののヒーロー映画はフィルムノワールにはなりえない。しかしダークサイドヒーローとも定義されるヒーローは、フィルムノワールになる資格を併せ持つ。デアデビルやバットマンが典型である。後述する仮面ライダーも出自が悪でありながら、善の行動をとるため、価値基準が曖昧になる要素を併せ持っている。

価値基準を曖昧にするために、物語は物語の中においても主人公の物語ではく、主人公は巻き込まれる形でその物語を追いかける立場が好ましい。主人公でありながら傍観者、観察者である必要があるのだ。傍観者、観察者は価値判断を下す権限がない。


主人公は巻き込まれるだけなので、退場しようと思えば、いつでも退場できる。その事件に関わる理由などない。そのいつでも退場することのできる主人公をつなぎとめる存在がファム・ファタールである。
『めまい』のマデリン、『チャイナタウン』のイヴリン・モウレー、『ロング・グッドバイ』のミセス・ウェイド・・・。彼女達の存在が、主人公がその事件を放棄することを思いとどまらせるのだ。整理すると、ファム・ファタールの存在が第一義の条件ではなく、第一義の条件は、善悪の価値判断を曖昧にすること、そのため主人公はそのストーリーに巻き込まれた傍観者であること、そしてその傍観者をつなぎとめるためいファム・ファタールが存在する、ということ。


ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』の場合で考えてみよう。一般的な評価として『サンセット大通り』はフィルム・ノワールのカテゴリーに入っている。自分はこの映画が純然たるフィルム・ノワールであるとは思わないが、いままで述べてきた構成要件から、この映画がフィルム・ノワールの範疇に入ることを、それも最重要な構成要件を有していることによって証明できる。

まずノーマ・デズモンドと主人公ジョーとの出会いは、債権者からの逃走、およびタイヤのパンクというハプニングから発生した、完全に巻き込まれる形によるものである。そしてジョーはいつでもノーマと共にするこのストーリー、境遇から抜け出すことができるのだが、彼はつなぎとめられるのだ。ノーマ・デズモンドというファム・ファタールによって。そしてラスト近く、ジョーが選択した行為はなんであったのか?彼は振り出しに戻ろうとしたのである。誰が悪い、誰が正しいという判決を下すことを避け、ただベティーのこともあきらめ、ノーマの元にも残ることもしない。彼は善悪の価値判断をやめたのだ。そしてただ振り出しに戻ろうとした。「巻き込まれる」「ファム・ファタール」「善悪の曖昧さ」この重要な3つの要素が『サンセット大通り』をフィルム・ノワールであると定義することができる理由だ。
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同じく作家が幽閉される物語として『ミザリー』が思い出される。しかし『ミザリー』はフィルム・ノワールではない。なぜか?主人公は怪我により、そのストーリー、境遇から抜け出す権利を奪われているのである。そして映画は主人公ポールが善であり、アニーが悪であることを明確に描写する。『ミザリー』はフィルム・ノワールではなく、サスペンス映画であり、ホラー映画なのだ。

巻き込まれる主人公は、始め、その依頼を断っていることが多いことにも注目しよう。『めまい』のスコティも、マデリンの尾行・調査を断った。ギデスのアイダ・セッションに対する最初の対応もそうだ。執拗にブレードランナーとしての復帰を拒むデッカード。



モノクローム、犯罪映画、というものが最重要の構成要件ではない。『ビッグ・リボウスキ』『ロング・グッドバイ』といった極めて明るい乾いた作品が、フィルム・ノワールとなりえるのがその証拠だ。

『ゴッドファーザー』よりも、『ビッグ・リボウスキ』の方がフィルム・ノワールらしい作品だ。巻き込まれるということが重要な構成要件に近い。

フィルム・ノワールという語感も重要である。決して、クライム・ムービーでも、ギャング・ムービーでも、ダーク・フィルムでも、ブラック・フィルムでもない。フィルム・ノワールでなければならない。フランス語を外来語ととらえる人には、フィルム・ノワールという語感そのものがフィルム・ノワールなのである。

ゴダールは、フィルムノワールはヨーロッパで生れたと言っている。

”なぜなら、アメリカのフィルム・ノワールは、亡命したヨーロッパ人によって……とりわけ、亡命したドイツ人によってつくり出されたからです。”
(『ゴダール 映画史(全)』ジャン=リュック・ゴダール著 奥村昭夫訳 P44 2012年 筑摩書房)

このジャンルがフランス語のフィルムノワールという語で定着した背景に通じるか。また一度は廃れたフィルムノワールを再評価したのも欧州の映画作家達であった。


ギャングスターナンバーワンはフィルム・ノワールだろうか?主人公は事件には巻き込まれない。ストーリーは明確だ。

主人公の物語でありながら、主人公は別の物語をおいかける。むしろ本当の物語はこちらの方なのだ。ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』をフィルム・ノワールだと呼ぶ人は少ないだろう。この作品でのリプリーは犯人であり、悪の主体であり、その行動が物語の視点となっている。一方、同じハイスミスの作品を映画化したヴェンダースの『アメリカの友人』はどうか?『アメリカの友人』は『太陽がいっぱい』よりも、フィルムノワールの要素を多く持つのである。主人公は誰か?ヨナタン・ツィマーマンだ。視点はヨナタンを通して描かれていることは明白だ。ヨナタンは巻き込まれる、突然リプリーの物語に巻き込まれるのだ。

同じヴェンダースの作品である『エンド・オブ・バイオレンス』はどうか。主人公はマイク・マックスだ。同じく彼は突然巻き込まれる。レイの物語に突然巻き込まれるのだ。マイク・マックスをつなぎとめるファム・ファタールは誰か?キャットだ。キャットは面白いことに、劇中でエドワード・ホッパーのナイト・ホークスの場面を演じる。エドワード・ホッパーのナイト・ホークスという絵画もまた、フィルム・ノワールの世界だと考えれないか?

(2)最重要な構成要件を支えるための要素
①探偵

探偵映画がフィルム・ノワールだという考え方にどうしてもとらわれがちであるが、それは明らかな間違いだ。フィルム・ノワールというジャンルにおいて、もっともふさわしい職種が探偵であるだけであり、構成要件を満たすならば、探偵が主人公である必要はない。

ならばなぜ探偵がフィルム・ノワールにおいて、もっとも安易に選ばれやすい職種なのか。
探偵とは、警察でもないので、犯人を捕まえる事もできない。ただ事件を追いかけるのみ。映画に出てくる探偵は、元警察であったりと、堕落者に近い存在であり、また携わる仕事も盗み撮りや、下世話な事件の調査など、およそ善の立場にいる人間ではない。かといって悪でもない。その奇妙な善悪の境界線上に存在している職種こそが探偵であるため、それゆえにフィルムノワールで選ばれる職業なのだ。

善悪の価値基準が曖昧であるということは、物語の最後となっても、何が悪で、何が善なのかを明確にしてはいけない。裁決を下してはフィルムノワールにはならない。史上最もフィルムノワールらしいエンディングは、『チャイナタウン』の最後の台詞だ。「ここはチャイナタウンだ」という一言で、解決させてしまう。

『LAコンフィデンシャル』が純然たるフィルム・ノワールになり得ないのは、主人公が悪徳の要素はいくぶんかはあるにしても警官という立場であるからだ。またラストシーンにおいて、エド・エクスリーがダドリー・スミスを射殺するが、聴視者への効果としてはハリウッド的な勧善懲悪のカタルシスでしかない。『ロング・グッドバイ』のラストシーン、マーロウが、テリー・レノックスを射殺する意味合いとは訳が違う。『ロング・グッドバイ』の最後の引き金を引く指が、単純な衝動的なものに根ざすとして、エクスリーの指にあったものはハリウッド的な打算だと言える。

マーロウはなぜ引き金を引いたのだろう?この点は、原作とは異なる結末を選択をしたこのフィルム・ノワール史上最高の傑作が不当な評価を受けた理由でもある。マーロウはなぜテリーを射殺したのか。マーロウの感情は別にして、映画の論理においては、それは振り出しに戻しただけ、と考えられないだろうか?そこには『サンセット大通り』のジョーが取った選択肢と同じなのだ。重要なのはマーロウもまた、善悪の判断をしていないのだ。テリーを悪である、と断罪した、と解釈するのは、この映画の大変に誤った解釈であると、言って置こう。あの引き金を引く指には、振り出しに戻ろうとするリピドーしかないのだ。

テリーを射殺した後、マーロウは晴れやかに家路につく、並木道で、ウェイド夫人とすれ違うが、一瞥もくれない。この場面は、『第3の男』のラストのパロディとも思える。フィルム・ノワールの二つの傑作が持つ、この同じようなラスト。もし、ここで両者が言葉を交わしたら、あるいはなんらかのコミュニケーションをもったとしたらどうなってしまうのか?そこに善悪の価値判断が微妙に生じてしまったことだろう。マーロウはテリーを射殺したがそのことを、ウェイド夫人に、なにか自分の口から伝えたら。いやマーロウにとって伝えられることなどないのだ。ただこの面倒な話にかたをつけ、振り出しにもどろうとしたに過ぎない。同じ感情を『第3の男』にも見出せないだろうか。

反対の例を持ち出すことで、この説の論拠を強化しよう。『LAコンフィデンシャル』のフィルムノワールとしての要素は薄い、と筆者は冒頭で断じた。多くの人々が、疑問に思う言説であることは筆者も推察する。ならばここで質問をしよう。「LAコンフィデンシャルのエンディングは振り出しに戻ったのか?」。答えは否だ。ホワイトは伴侶を手に入れ、エクスリーは昇進した。『LAコンフィデンシャル』の持つ善悪の価値基準が曖昧ではないことの証明なのである。




主人公は巻き込まれるとはいっても、必然的に巻き込まれている要素もある。善悪の価値判断を下せない人間。それは善にも、悪にも属さず、中間の状態にいる人間。上述したとおり探偵は選ばれやすい。『めまい』のスコティを思い出そう。

作家
作家は、善悪の価値基準を強く持つ場合もあるが(レフ・トルストイのように)、作家が選ばれる理由は、超越的傍観者としての立場になりやすいからである。

『ドラゴン・タトゥーの女』は昨今の中では素晴らしい完成度を誇るフィルム・ノワールだろう。主人公はある家族の伝記を書いてくれと頼まれる。映画脚本を書いてくれ、と頼まれたバートン・フィンク、自分の脚本をタイプしてくれとノーマから頼まれた『サンセット大通り』のジョー、自分が書き進めたフィクションに知らぬ間に紛れ込んだ『ハメット』のダシール・ハメット。『第3の男』のホリー。似ていると思えないだろうか。作家とは、エピソードを客観視する超越的傍観者なのだ。

ならばここでチャイナタウンの主人公を演じたジャック・ニコルソンが同じく主演を務める『恋愛小説家』がなぜ『フィルムノワール』になりえないのか?主人公は作家である。いくつかのエピソードが存在し、巻き込まれているともいえる。また物語りにつなぎとめるキャロルという女性もいる。ここにはまず善悪の価値基準の提起がなく、結果としてその判断を曖昧にするということもない。主人公が巻き込まれるストーリーはあるものの、それは超越的傍観者としてではなく、張本人としての巻き込まれ方になる。フィルムノワールの構成要件として、まず主人公とは別に強い軸を持ったストーリーが流れていなければならない。それこそ主人公を省いたところで、そのストーリーのみだけで存在できるほどの強い軸だ。『恋愛小説家』が、恋愛映画であり、明るく、カラフルな映画だから、フィルムノワールではない、という判断はしてはいけない。恋愛の要素を持ち、明るく、カラフルなフィルムノワールは数多く存在するからだ。恋愛としては『めまい』をあげられるし、明るく、カラフルな映画は『ビッグ・リボウスキ』が際たるものだ。

巻き込まれる、あるいは巻き込まれない、ということを端的に判断する方法がある。その主人公をその映画作品の空間から省いても、強いストーリーがそこに存在するかどうか、ということだ。主人公を省いたとき、そこにストーリーが成り立たない場合、フィルムノワールとしての性質は弱いと断定できる。『恋愛小説家』からメルヴィンを取り除いたら、映画として成立するだろうか?不可能だ。しかし『チャイナタウン』からギデスを取り除いたとき、どうだろう。映画は成り立つのである。ギデスがいなくともそこにはノア・クロスとイブリン・モウレーの強い物語が存在するのだ。

『ハードエイト』はどうだろう?人物造詣が要である映画であるが、まず巻き込まれるのは誰なのか?ジョンかシドニーか?ジャック・コーヒー・ショップでの冒頭の場面。シドニーは、ジョンのことを知っていながら、意図的にジョンに近づく。巻き込まれるのはジョンだ。しかし、物語の中でもっともスリリングな見せ場となる、モーテルでの場面、この事件に巻き込まれたのは逆にシドニーである。しかしジョンはシドニーを知らなければ、もしこの事件が起きたとして、シドニーを呼べることもないのでり、シドニーの物語にやはり巻き込まれたのはジョンであると考えなければならない。物語の骨格上、シドニーはいってみればめまいのマデリンの夫であり、ジョンはスコティなのだ。ジョンを排除しても強く流れる物語とは、それはシドニーの贖罪の物語であり、実にクライマックスでは、ジョンは舞台から退場し、そこはジミーとシドニーだけの世界となる。




リアリズム
チャイナタウンにおいて、ギテスは物語の前半において、鼻を切られ、全体を通じ、鼻に絆創膏を貼ったまま登場する。これほど格好の悪い主人公はいるだろうか?堕落者としての格好の悪さ。『ロング・グッドバイ』のマーロウは、ウェイド夫人を追いかける途中で、車に轢かれ、病院に担ぎ込まれる。『バートン・フィンク』ではW・P・メイヒューは嘔吐し、『ブレードランナー』におけるデッカードの、レプリカントとの闘いにおける、あまりにも不様な負けっぷりは、これが主人公なのか?これがヒーローなのか?と思うだろう。しかしこれがリアリズムなのだ。勧善懲悪のそれまでのハリウッド映画を否定する、弱いヒーロー、それは肉体的にも、精神的にも弱いヒーロー。

追跡と推理
事件を追跡、または推理する場面では、セリフは極限に抑えられ、音楽も控えめとなり、場合によっては環境音のみとなるケースもある。『めまい』においてイブリンを追跡するスコティ、『チャイナタウン』においてモウレーを追うギデス。その場面は非常に共通点を見出せる。『ブレードランナー』においてゾーラの所在をスライドから特定しようとするデッカード、その場面の与える緊張感は、『めまい』と『チャイナタウン』の上述の場面と同じだ。

ストーリーを曖昧にする主人公の推理
『ロング・グッドバイ』、『チャイナタウン』を見て、鑑賞者が混乱する場面がある、前者ではマーロウが浜辺でウェイド夫人を詰問する場面、後者ではギデスがモウレー夫人を詰問する場面だ。いずれにおいても主人公が論理的に推理を働かせるのだが、映画の文法上、あるいは物語の文法上、主人公が提示する推理の断片は、事件の解決につながる伏線にならなくてはならないのではないか?しかしフィルム・ノワールでは、主人公は車に轢かれたり、鼻をナイフでそがれるような人物なのだ。その推理は

寓話
明確なストーリーもまたフィルム・ノワールにはふさわしくない。フィルム・ノワールにB級と呼ばれる映画が多い理由。ストーリーが破綻しているからこそB級なのか、B級であるからこそストーリーが破綻しているのか。『チャイナタウン』と『ロング・グッドバイ』に共通しているシーンとして、ファム・ファタールを強く詰問する場面がある、『チャイナタウン』ではブラウンダービーでの場面、および出発の直前のイブリン邸での場面。『ロング・グッドバイ』では、ロジャー・ウェイドが溺死した後、浜辺での場面。その二つで共通していることは、二人の主人公は、二人して真実とは異なることを声高に叫んでいるのだ。映画の文法として、しかもサスペンスや謎解き要素のある物語の場合、ひとつひとつの台詞、しぐさ、場面が積み重なって、真実への糸口となっていくと考えられるが、二つのフィルム・ノワールの傑作はその方程式を拒絶している。



フィルム・ノワールのいくつかの構成要件。演出 1.回転

作品の舞台となる背景が1950年代といった時代となるため、小道具として使われる。ただの小道具ではない。
回転とはゆるやかにつねに、ある地点からある地点に戻ってしまう。堂々巡りの象徴である。主人公のおかれた状況の象徴となる。
『バートン・フィンク』でもホテルの受付、室内、いたるところに扇風機が登場する。
ゆるやかな動き。回転。それは幻惑的な、催眠の効果すらあわせもつ。扇風機の回転のあるなしを比べたければ、
『バートン・フィンク』におけるバートンの宿泊室における、チャーリー・メドウズとバートンの会話の場面を比べればいい。
メドウズとバートンがレスリングをする場面、そのときバートンの仕事机の上の扇風機は止まっている。ゆるやかな動きがなく、幻惑的な効果がなくなっている。
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『エンゼル・ハート』でも同様。また扇風機、ファンは光と闇を交互に映し出す空間も演出する。ここには格子、網も組み合わされている。
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フィルムノワールに明らかに影響を受けているポーティスヘッドの、To Kill A Dead Manのショートフィルム。冒頭でファンの回転による白黒の演出が取り入れられている。

平成仮面ライダーシリーズにおいて、フィルム・ノワールの影響を色濃く出した『仮面ライダーW』ではいたるところに風車、ファンの回転のイメージを取り入れている。
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回転から思い出す代表的な作品は、ヒッチコックの『めまい』である。スコティのみる悪夢で映し出される螺旋のアニメーション。タイトルバックの映像も回転をとりいれたものだ。『めまい』のラストシーンでは螺旋階段が舞台となる。フィルムノワールに必要なことは、混乱、めまい、あいまいな白黒の境界線。
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同じく螺旋階段を、登場人物の困惑、混乱の象徴として使った映画がある。やはり初期のフィルム・ノワール作家であるフリッツ・ラングの「M」だ。娘の帰宅が遅いことに対し、徐々に混乱と不安、困惑を強めていく母親の心理描写に螺旋階段が使われる。
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地上にある回転するものの最大のものはなんだろう?もちろん観覧車だ。説明は不要だろう。映画史上の屈指の名画であり、かつフィルムノワールとしても最大級の賛辞を与えることのできる『第3の男』を思い出すはずだ。善悪の価値基準の曖昧さ、として、すべての人は、ハリーライムの観覧車の中での、台詞を思い出すはずだ。

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回転は、堂々巡りの象徴であり、なぜ堂々巡りをしてしまうのか、という理由を探れば、それは自分の意思ではどうすることもできない運命に翻弄される、自分よりも強い力によって、行動が抑制されてしまうことの象徴である。主人公はその運命を自分の意思で変えようと試みても、何か別の力によってそれは阻止され、その堂々巡りとなるのである。

『ビッグ・リボウスキ』で使われる、回転草(タンブルウィード)のイメージ、同じく、コーエン兄弟には『ミラーズ・クロッシング』で使われた回転する帽子というイメージもある。回転草、そして帽子に、コーエン兄弟の映画で描かれてきた翻弄される主人公達の姿を重ねることができるだろう。

『ビッグ・リボウスキ』でテーマ曲として使われたのはボブ・ディランだが、ディランの80年代の名曲”タイト・コネクション”で、まるで回転草のような、似たイメージが使われている。開始して10秒程度で現れる青い物体だ。コーエン兄弟はこの”タイト・コネクション”のクリップの影響を受けたのだろうか。

ボブ・ディランの”タイト・コネクション”のクリップは、フィルムノワールの『東京ジョー』の影響を受けている。歌詞には『マルタの鷹』などのハンフリー・ボガードのセリフが引用されている。”タイト・コネクション”のクリップを見れば、ここにはいままでのべてきたフィルム・ノワールのすべての要素があることに気づくだろう。『チャイナタウン』を彷彿とさせる、東洋趣味の導入もフィルムノワールの構成要素であるのではないか、と推察される。

回転に関連するイメージで、ダンスという要素もある。バートン・フィンクにおけるチャールストンの場面。そしてそこから続く乱闘のイメージ、殴打され転がるバートン・フィンク。殴打され転がる、自分以外の強い力により、転がされるイメージ。それはミラーズ・クロッシングにおける、レオのオフィスから殴りだされるトムのイメージ。そしてチャイナタウンにおいて、オレンジ畑で殴打されるギデスのイメージにつながる。

『ヴェルクマイスター・ハーモニー』において延々と回り続ける人々。回転、ループ、それが生み出す幻惑。筆者は『ゴッドファーザー』よりも『去年マリエンバート』の方がフィルムノワールとしての性格は強いと断言しよう。

音楽でノワールの要素を感じさせるポーティスヘッドが、ループを多用する音楽ジャンルの出自であることも無視することはできない。ループ、繰り返しは、音楽による回転の一形態である。音楽においては、回転運動を描写することは古くから行われてきた。シューベルトの歌曲“糸を紡ぐグレートヒェン”、ワーグナーの『さまよえるオランダ人』の“糸紡ぎの合唱”、それらを元にしたリストのピアノ独奏曲。上昇と下降のアルペジオの旋律を早く繰り返すことで、回転する糸車を描写したのだ。上昇と下降のアルペジオの繰り返しで、回転を想起させる目的は、容易に『めまい』のタイトルバックで、バーナード・ハーマンが使った手法に見いだせるだろう。


光と闇
善悪の基準の曖昧さ。それは光と闇の演出につながる。モノクロームが取り入れられるのは世の中を白と黒だけの世界にする単純な方法だからだ。
『バーバー』はカラー作品で撮られた映画であるが、フィルム・ノワールの世界を作り上げる為にモノクロームに変更された。

格子。ブラインド。をとおる光もまた、光と闇の世界を作り出す。ブラインドの光を取り入れたのは『ブラッドシンプル』である。同じく格子は、『エンゼルハート』でも使われる。

ブラインドの歴史は古いが、アルミ製のブラインドが普及したのは1940年代である、フィルム・ノワールの舞台ともなる時代背景と一致する。
LAコンフィデンシャルのブラインド。
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チャイナタウンでは冒頭、嫉妬に我を忘れた依頼人のカーリーが、購入したばかりのギテスの事務所のブラインドを痛めつけるエピソードから開始される。
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格子、鉄格子は、罪人の象徴でもあり、フィルムノワールの舞台には登場しやすい。
『バーバー』では、リーデンシュナイダーの演説の場面で美しい光の演出とともに使われる。
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高架橋
20世紀初頭のアメリカにおいて、高架で作られた線路は光と影を演出する道具となった。コンクリートで固められた現代の高架橋ではなく、木組みの高架橋は、線路を構成する枕木が必然的に格子を作り出し、頭上に設置されたことで光と影を演出する役目を担った。映画で思いつくのはフィルムノワールとしての要素は薄いが、『スティング』において、フッカーがスナイダーの追跡を逃れる場面。また他の芸術ではアンドレアス・ファイニンガーの写真で多く見られる。
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煙、ガス、水蒸気、硝煙、霧、そして呼気

光に形を与え、闇との境界線を曖昧にする存在として煙は重要な役割を果たす。フィルムノワールにおいて登場人物がタバコを吸う理由は、タバコがクールであり、ハードボイルドだからではなく、煙を生じさせる事で、境界線を曖昧にしているのだ。水蒸気やガス、霧に包まれている空間であるならば、タバコを吸う必要もない。

ブレードランナーでは都市の蒸気が使われる。
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蒸気に覆われた街はアンドレアス・ファイニンガーのカメラにも多くとらえられた。
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LAコンフィデンシャルのクライマックスシーン。銃撃により壁に無数の穴があき、そこに光が差し込み、光は硝煙、砂煙によって形をあたえられる。
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この壁にあいた穴から差し込む光は、現代フィルム・ノワールの旗手コーエン兄弟がブラッド・シンプルで作り上げた映像だ。
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人口的な煙である水蒸気、ガス、煙、硝煙などは、近代化、文明化の象徴であり、都市開発が急速に進んでいく20世紀初頭という時代背景と合わさる。それは都市の荒廃、堕落、背徳とも関連づけられる。

一方、自然の一部である霧も、境界線を曖昧にし、光と闇の存在を浮かび上がらせるために使われる。『めまい』の金門橋の麓の霧に覆われたサンフランシスコ、全編にわたり霧に覆われる『インソムニア』

『インソムニア』の舞台はアラスカ、『ドラゴン・タトゥーの女』はスウェーデン、寒い国が舞台として選ばれる結果として、人間の吐く呼気を映像としてとらえることができるというメリットがある。

映写機

以上述べた、回転、光と闇、煙・ガスという3つのアイテムを一度に現出させるすばらしいアイテムがある。ポーティスヘッドの『To Kill A Deadman』にも登場していることに注目して欲しい。それはフィルム・ノワールが量産された時代にもマッチする映写機というアイテムだ。映写機は回転し、光を生じさせ、そこに観客の吸うタバコの煙を現出させるのだ。『サンセット大通り』にもその場面があることに注目しよう。ジョーはなぜ映画が始まる前にタバコに火をつけたのか?鑑賞者にはそれが自然な動作であり、なんの疑問も抱かないが、演出上は、光に煙を映し出させ、フィルム・ノワールとしての要素を強く出すためであるからだ。
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ニヒリズムとフィルムノワール

厭世観。

価値判断を避けるフィルムノワールは、容易にニヒリズム、厭世主義と結びつく。ニヒリズムとハードボイルドがなぜ一時期、同じような定義で語られたのか。それを結びつけたものはフィルムノワールであったはずだ。善悪の価値判断を放棄する場合、そこには諦め、厭世感が漂う。そして善悪の価値判断を放棄することは現実の受け入れであり、理想論の拒絶。何かしらの価値判断を下さなければならない、という価値観こそが、現実離れしていないか。

文学におけるフィルムノワール。
いや、文学において該当する作品を探す以上、フィルムの言葉ははずさなければならない。ノワールとは何か?

文学作品でノワールを思い浮かべる場合、筆者はまずカフカの『城』を思い出す。フリーダというファム・ファタールの存在、城に入れないという堂々巡り。カフカの作品にはノワールの要素を持つ作品が多くある。当然『審判』もあげられるだろう。

ここまでフィルムノワールを語る上で、登場させたいくつかの名前を結びつける興味深い動画をアマチュアの好事家が作成している。オーソン・ウェルズ、カフカ、そしてポーティスヘッドである。



「唯ぼんやりした不安」

フィルム・ノワールとは何か?すでにこの考察文では、考察の対象は“ノワール”という語に集中してきた。さらに、その考察を進めよう。すでに筆者が提示するフィルムノワールとしての作品が、王道から外れてきていることには気づいただろう。しかし王道から外れることで、核心にたどり着けることもある。

チャップリンは生涯で、戦争に言及する映画を3作撮った。『担え銃』、『独裁者』、『殺人狂時代』。「チャップリンの一連の作品の中にフィルム・ノワールの要素を持つものがある」と断言したら、驚かれるだろうか?しかしここまで考察を進めた後ならば容易に判断できるだろう。それは『殺人狂時代』である。ヴェエルドゥは最後、善悪の価値判断を行っただろうか。否である。アメリカの勝利を称えた『担え銃』、ヒューマニズムの勝利を高らかに宣言した『独裁者』とは異なり、『殺人狂時代』においてヴェエルドゥは何が善で何が悪なのかをわからなくする発言をする。

『ビッグ・リボウスキ』が発表されたのは1998年であるが、なぜ物語の設定は10年もいかない過去の湾岸戦争時が設定されたのだろうか?その必然性を誰が説明しただろう?ジェフ・リボウスキの夢の中にフセインが出てくる。なぜ彼は気楽に暮らしているように見え、戦争の影を恐れているのか。

カフカ、『殺人狂時代』、そして狭義のフィルム・ノワールが量産された1940年~1950年。その時代背景にあるものはなんなのか?それは戦争である。そしてその戦争は第二次大戦でなければならない。正しいか否かは別にして、善悪の価値基準が明白であった第一次世界大戦ではない。第二次世界大戦は初めて人類の歴史において、善悪の価値基準の根底を破壊した戦争だったのである。

戦争こそは、本人の意思ではどうにもならず、まさに巻き込まれ、翻弄される事象だろう。

現代映画界を代表するような名匠はなぜこぞってフィルム・ノワールの影響を受けているのか。コーエン兄弟、ヴィム・ヴェンダース、クリストファー・ノーラン、ラース・フォン・トリアー。


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キャロル・リード

読ませて頂いたのですが
フィルムノワールに関する素晴らしい考察文でした

本にして売って頂きたいレベルですね


by キャロル・リード (2017-04-13 20:24) 

Poodle

こんな書き散らかした文章を読んでいただいてありがとうございます。また小躍りしてしまうようなコメントもありがとうございます。ちょこちょこと書き足したりしているので、なんとかそのうちちゃんとした読み物として完結できるレベルに持っていきたいと思っています。
by Poodle (2017-04-15 05:06) 

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