So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

『私のチャップリン』 [読書 Books]

日本に戻ってきて、つい最近、古書店のことについていろいろ書いていたものだから、自分にとって一番思い出深い、今はなき武田書房で買った本を棚から取り出した。そのうちの一冊が、淀川長治の『私のチャップリン』。この本が武田書房のどの棚にささっていたかも、今でも鮮明に覚えている。
IMG_4261.JPG
高校生の時に買ったのである。僕がチャップリンに熱中するのは中学1年生の時。当時、チャップリンの情報に飢えていた僕は、手あたり次第に、チャップリンの名前を見つけたら、新聞から切り抜き、書店で見つければそれを購入したりしたのだが、その後僕はロックに夢中になり、映画への関心が薄れてしまう。高校2年生ごろだろうか、今度はロックからクラシック音楽を聴くようになりだす。クラシックを聴きだすと、必然と、周辺の芸術作品も、文芸的なものへ興味を抱き、再びチャップリンのもとへと帰ってきたのである。

どのような経緯なのかというと、もっとわかりやすい事実を用い、説明すれば、武田書房で購入した他の書籍として、当時、入手したものに『ニジンスキーの手記』『その後のニジンスキー』がある。ニジンスキーはチャップリン自伝に登場する偉人として興味を持っていたのだ。高校2年生か3年生の頃、授業中に僕は、授業などを聞かずに、机の下に『ニジンスキーの手記』を広げ、本を読みふけった。

そのような時期にあらためて購入したのが淀川長治の『私のチャップリン』であったのだ。それは上述のニジンスキーに関しての書籍が存在した同じ棚から摘み取られたものであった。

名著である。もっとしっくりくる言葉で言い換えれば、非常に価値のある本である。これは淀川長治にしか書けない著作だ。まえがきを読むと、氏はこの小さな書籍に2年を費やしている、と書かれている。淀川氏がまえがきに書いているとおり、氏は通り一遍の伝記を記述したり、アカデミズムの匂いがするような論述を繰り広げることを避けた。それよりも、淀川氏しか知り得ない、チャップリンにまつわる記憶を紡ぎだすという選択をされたのである。実に素晴らしい判断。聡明な英断ではないか。いや、氏の言っていることはもっと複雑だ。2年を費やす理由も、分かってくる。

この書籍には、サーカスを撮影していた頃、チャップリンの撮影所に入り映画研究を行うことのできたという牛原虚彦氏との対談が収録されている。

“牛原 いちばん最初のほうにヴェニスの遊園地が出るでしょう。あのスリのくだりのところ。(中略)あのあたりを、私、勘定していて、ちょうど六週間かかった。
淀川 すごいねぇ。それは同じ子どもで。
(中略)
牛原 それが最初はヴェニスでやっていたんです。ヴェニスというのは、オ―ション・パークとサンタモニカのあいだにある遊園地なんです。
淀川 それは海岸ですか。
牛原 海岸です。”
(『私のチャップリン』淀川長治 PHP研究所 1977年 P204)


感銘を受ける。『サーカス』の撮影に立ち会うという事実だけでとてつもないことだが、牛原氏は、あの失われたヴェニスのアボット・キニーのピアに行っているのである。そして淀川氏の返答からわかることは、当然のことだが、氏は、ロサンゼルス近郊の土地勘があまりない。これらの事実に僕は感激するのである。

https://fuyublog.blog.so-net.ne.jp/2017-05-22-1

淀川長治氏の著述にはいくつか間違いがある。しかしそれが重要なのだ。例えば、P123。『サニーサイド』の天使たちとの舞踏の場面。

“ぱたんと地上にひっくりかえったところが西部のサボテンの上だったので、痛いッとそのサボテンを尻からむしりとるところで目がさめる。”
(『私のチャップリン』淀川長治 PHP研究所 1977年 P123)

淀川氏は、この場面を、チャップリン本人の前で実演してみせる。

“私がどんなに古くからチャップリン映画を見ているかを椅子からのり出して話したのであった。「サニー・サイド」のチャップリンダンス・シーンをすっかり記憶していた私は、チャップリンが最後にひっくりかえってサボテンのトゲに尻を刺されてそのサボテンを片手でもぎとるしぐさまでチャップリンにして見せた。”
(『私のチャップリン』淀川長治 PHP研究所 1977年 P28)

この記事にも書いた通り、この淀川さんの記憶は間違えているのだが、その間違えているという事実が記憶というフィルターを通した果てしない時間の流れを証明させ、僕は感激するのである。
https://fuyublog.blog.so-net.ne.jp/2017-06-05-1

この文章が書かれたのは1977年。『サニーサイド』は1919年の作品。日本公開もおそらくそのあたりだろう。淀川さんは、この初公開以降、この作品を見ていないはずだ。60年近くもの間、淀川さんは記憶の中にある『サニーサイド』を演じてみせる。

『私のチャップリン』にしっかり、そのあたりのことが書かれている。

“日本では大正九年四月八日「サンニーサイド」として封切られた。”
“ところがどういうわけかチャップリン自身が再公開を許した多くの作品の中に「サニー・サイド」だけがない。いまから何年前であっただろうかチャップリンの長女ジェラルディンが来日したとき、(中略)話のついでに『あんたはパパの(サニー・サイド)を見ましたか)』と聞いたところ意外にも見ていないと答えた。”
(『私のチャップリン』淀川長治 PHP研究所 1977年 P118~P119)


『私のチャップリン』をつまみ読みすると、氏がアメリカに2度ほど来ていることが分かる。1953年が二度目の訪米とのこと。その時に、チャップリンの秘書であった高野虎市氏と親睦を深めている。ロサンゼルスに来ているのだから、チャップリンの撮影所、もうその時にはチャップリンはアメリカにはいない。1952年10月に赤狩りの結果として、アメリカを後にしている。スタジオは売却され、スーパーマンの番組を手掛けるクリング・スタジオのものとなる。

一度目の訪米は、どうもその直前の1952年のようだ。ラ・ブレアのチャップリン・スタジオで、淀川さんは『ライムライト』を撮影しているチャップリンに会っている。すごい話だ。

たまに物事は不思議にも奇跡のような経緯を辿る。パン・パシフィック・オーディトリアムに不思議な経緯を見出さざるを得ないように、淀川長治氏がこの『私のチャップリン』をしたためた顛末にも奇跡がある。この書籍の出版h1977年9月なのだ。氏のあとがきは8月となっている。この書物はチャップリン存命中に書かれているのである。出版されてからわずか3か月後にチャップリンは他界する。淀川さんは、この小さな書籍を小さな放浪紳士に渡せたのだろうか?

さて僕は思いついて、この『私のチャップリン』をアメリカに持っていくことにした。上に3冊の写真があるが、それは日本で撮影し、『私のチャップリン』だけをアメリカに持ってきたのである。アメリカに戻って最初の週末に、僕は次のことをしたのだ。

IMG_4689.JPG
IMG_4692.JPG
IMG_4693.JPG
IMG_4690.JPG
IMG_4691.JPG

ラブレアにあるチャップリン・スタジオで、この小さな書籍と写真を撮ったのである。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント